「自信」に対する重大な誤謬

 

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私は昔から自信のない人間でした。10代の頃はずっと「自分は出来損ないだ」と思っていて、自信なんてこれっぽっちもなかったんです。

 

自信をつけようともがいた20代

大学入学後の私は、環境の変化が良いほうに作用して、生きる活力が少しずつ回復してきました。そこで私は、自信をつけるためにいろんなことにチャレンジしました。
・インターネットで知り合いを作る、オフ会に行く
・勉強をして資格を取る
・趣味を増やすためにいろんなことに取り組んでみる
などなど。

 

ネット上のいろんな人たちと交流する中でコミュニケーション能力が改善したように思いますし、気がついたらいろんな資格を手にしていましたし(漢字検定、TOEIC、HSK、簿記、基本情報技術者、危険物取扱者甲種……)、趣味もたくさん増えました(アニメ、ゲーム、読書、カラオケ、筋トレ、登山、自転車、自作PC、オーディオ、ギター、イラスト……)。

 

でも、「それで果たして自信がついたのか?」と言われると、なんかあんまり自信がついてないような……という感じでした。

 

「自信」に対する重大な誤謬

結論から言うと、私は自信というものをこれっぽちも理解していなかったのです。私が自信に対して誤った認識をしていたのは以下の2点です。

 

1.「自信」とは基本的に根拠のあるものである(「根拠のない自信」というものも持っている人は持っているらしいが……)
2.客観的な価値基準をもとにした「自信」は強固である

 

「自信」について述べた上記の2つの文章は完全に間違っています。正誤問題でこれらが出てきたらノータイムでバッテンをつけましょう!

 

「信じる」ことに根拠はいらない

まず1つ目。「自信」とはそのまま「自分を信じる」ということですが、「信じる」とは本来、何の根拠もなしに行われるものなのです。

 

浄土真宗の開祖である親鸞の教えが記された「歎異抄」の第2条は、「信じる」ということの真髄を示していると私は感じています。

henmo.net

 

親鸞は「法然さんの言うことを信じて地獄に落ちたらもうそりゃしゃーない。でもワシはそれ以外なんもできんから法然さんのこと信じるよ~(意訳)」という感じのスタンスを取っています。


それとは逆に、「根拠をもとに信じる」というのは全然信じちゃいないのに等しいんですよね。条件付きの取引をしているだけに過ぎないのです。もし自分より有能っぽい人が現れたらその取引は打ち切られて、自信(と思っていたもの)は脆くも崩れ去ります。そして、それが自己否定や他者否定という形で表出するのです。

 

「信じる」ことに客観はいらない

客観的な価値基準をもとにした「自信」

 

……って、なんかおかしくないですかこれ。誰かが決めたものを基準にしてたらそれは「他信」になってしまいますよね。

 

だから、主観でいいんですよ。 

 

そして更にそこから主客の概念を超えて、自分は「自然の中の一部」とか「宇宙の中のひとかけら」とかみたいな境地に達したら、そのときにはきっと靭やかで折れることのない自信を手にしているのでしょう。きっと。

 

 

 

(参考文献)

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)
泉谷 閑示
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