【仏教(浄土真宗)】「歎異抄」が面白い ~人との縁について~

 

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このエントリでは、「歎異抄」第6条から得たことを書いてみたいと思います。

 

(先日、第3条に関する内容も書いています。)
shugyou-nikki.hatenablog.com

 

「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」

これは、第6条の中の一節です。現代語訳すると、「親鸞は弟子を一人も持ちませんでした」となります。

 

……あれ? 親鸞には弟子がいて、その中の1人である唯円が「歎異抄」を書いたんじゃないの? 

 

結論からいうと、親鸞に弟子がいたのは事実です。 ではなぜ親鸞は「弟子を持たなかった」のでしょうか?

 

弟子は阿弥陀様のもの

親鸞はこう考えていたのです。

「私の教えによって念仏を唱えている人がいるとしても、それは阿弥陀様のお力によって念仏を唱えているだけ。私はそれを取り次いでいるにすぎない」

 

だから、弟子は自分のものではなくて阿弥陀様のものであるということです。ここからもやはり「謙虚さ」を感じますね。逆に、「弟子が自分のもとから離れていった! けしからん!」などという人がいたとしたら、それは傲慢だといえるでしょう。

 

「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなる」

これも同じ第6条の中ある言葉です。これもまたいい言葉だなと思います。

 

人と人とのかかわりは、一緒になる縁があれば一緒になるし、離れる縁だったら離れる。ただそれだけなのだと思います。

 

「友達がいる」「恋人がいる」などをその人のステータスと見る価値観もありますね。その価値観に縛られ、「友達を作ること」「恋人を作ること」が目的になってしまっている人々も散見されます。しかし、本来それらは人生を豊かにする手段の1つなのでありましょう。自身の見栄のために友達や恋人を手に入れようとするのは苦しみの原因になりかねません。なぜなら、他人を完全にコントロールすることなど不可能だからです。自分の力で他人をコントロールしようというのは、「傲慢」に他なりません。

 

人間関係も、阿弥陀様の大いなるお力にお任せして、謙虚にいけばよろしいのでしょう。pha氏も著作「持たない幸福論」の中で、「去る者は追わず、来る者はたまに拒む*1」と書いておられましたが、私もそのくらいのスタンスでよいと思います。

 

 

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*1:「拒む」というのは相手の存在を否定するわけじゃなくて「相性というものがあるから棲み分けをしましょう」ということ